旱天の慈雨

 軍人として幾度となく戦場に立って来たが、クリスは未だに戦闘行為というものが苦手だった。出来れば戦闘などせず、穏便に済ませたいと本心から思う。
 けれど、戦闘中に機体との同調率が上がって行く感覚を、とても心地良いと思う自分がいることも確かだった。
 優しく包まれるようでありながら、神経が鋭敏になって行く。水底まで見通せる透明な水そのものに自身がなって行くような感覚。出来ることならこのままずっとこうしていられれば、とすら思う。
『——論、古論!応答しろ、古論!』
 クリスの意識を現実に引き戻したのは、通信機から聞こえる自分を呼ぶ声だった。
 クリスは応答を求める声に返事をしようとし、すぐに困惑する。——声を出す為には、どうすれば良いのだったろうか。
 出撃前まで、いや少し前までは音声通信でやり取りをしていたのだから元々喋ることが出来ない訳ではない。だというのに、今のクリスは発声の方法を思い出せなかった。一体今まで自分はどうやって声を出していたのか。わからない。元から声を出せなかったような気さえして来る。
 声を出すことは出来ないが、応答を求めている通信を無視することも出来ない。ひとまずマイクを拳で軽く叩くことで返答としたが、相手には伝わっただろうか。
『……息を。深呼吸をするんだ。ゆっくり吸って、吐く。出来るか』
 呼吸。呼吸とはなんだっただろうか。吸って、吐く。そうだ、空気を吸って肺に取り入れて吐き出す、それが呼吸ではないか。
 当たり前のことを通信機からの声で思い出し、指示に従ってゆっくり深呼吸をする。
「——っ、はぁ」
 少し噎せた音をマイクが拾ったのか、通信機から『ゆっくりで良い。吸って、吐いて。落ち着いたら返事をしてくれ』と雨彦の声がする。そう先程からずっと、通信機越しに呼び掛けているのは雨彦だ。クリスはやっとそれを認識する。
「…すみません、もう大丈夫です」
 もう意識をせずとも呼吸が出来る。通信している相手も、今の自分の状況も、はっきりと理解できる。大丈夫、自分は生きている。まだ戦える。
 ありがとうございます、という声を聞いた雨彦がほっと息を吐きつつも苦い顔をしていることをクリスは知らなかった。