小さな電子音が響く深夜の部屋で雨彦は黙々と紙を折っていた。丁寧に丁寧に、図鑑でしか見たことのない様々な種類の鯨を——それを楽しそうに解説する声を思い出しながら——一頭ずつ白い紙で折って行く。本音を言えば黒か青の折り紙を使いたかったのだが、軍の前線基地であるこの場所にそんなものは存在しない。なので雨彦は書類用紙を少々拝借して折り紙代わりにしていた。
本来ならこんな時に折るのは鶴なのだろう。指を動かしながら雨彦はそんなことを思う。だが鶴よりも此方の方が彼の好みであろうし、早く此方に戻って来てくれるような気がしたのだ。
祈りのような願いを込めて鯨を折り続ける雨彦の傍らで、彼——古論は静かに眠り続けていた。
古論の乗るディープは先の作戦で敵の攻撃が直撃しそうになっていた北村の乗るムーサを庇い、海の底へと沈んで行った。海はディープの得意とする領域であったが、既に長時間戦闘を行なっておりエネルギーの残量も少なく、機体の損傷も激しかったことから古論の生還は絶望的とされた。
だが古論は北村に必ず帰ると告げ、不可能と思われた生還を本当に果たし、未だ意識は戻らないとはいえこうして雨彦の前に戻って来た。
何故北村を庇ったのか、とは思わない。確かにあの場合ムーサが攻撃を受けるよりもディープが庇った方が双方の生存の確率は——例えそれがどんなに僅かな可能性であろうが——高かったし、なにより雨彦が古論の立場でも北村を庇うことをしただろう。庇われた北村にも非があった訳ではなく、襲われたのも非戦闘地域に戻って来てからの話だった。油断をしていたと指摘されればそうなのかも知れないが、言ってしまえばアレは全くの事故のようなものだ。故に、チームのリーダーとしては古論の行為を褒めはしても咎めるような気は全くない。
ただ、恋人としては、もうこうして傷付いては欲しくないと、そう思ってしまうのは確かだった。
包帯とガーゼの合間に覗く肌は青白く、寝息も分からぬ程深く静かに眠る古論を見ていると、もう二度と目を覚まさないのではないかという薄ら寒い考えが過ぎる。そんな不吉な考えを払うように、雨彦はベッドの横に腰掛けながらひたすらに鯨を折り続けていた。
古論と北村が敵の襲撃を受けた時、雨彦は2人の側ではなく欠員の出た別部隊の応援として離れた戦場にいた。古論が沈んだと聞いたのも、2人が襲われたと聞いたのも帰還後だった。2人が襲われている最中に雨彦は何もすることが出来なかったのだ。
そして、今も雨彦は古論に対して何も出来ずにいる。治療を施され機械に繋がれた古論が目を覚ますことを待つしか出来ない己の無力さを誤魔化す為に、雨彦は無心で白い鯨を折り続けていた。
繰り返していた電子音の間隔がほんの少し乱れる。雨彦が手元から視線を上げるよりも先に、掠れた声が聞こえた。
「雨、彦…?」
「……おはようさん」
古論が目を覚ましたという事実に心の底から安堵を覚えて雨彦は微笑む。
寝ている姿も美しくはあったが、やはり古論は瞳が見えている時の方が綺麗だと思う。
「っ、想楽は…?!」
居ないことを異変と取ったのか、古論は弾かれたように身を起こす。そんな古論を雨彦は優しく制した。
「安心しな、北村なら無事だ。今は——寝てるだろうから、朝になったら連れて来るさ。お前さんが目を覚ましたと知ったら喜ぶだろう」
「そう、ですか…。良かった…」
雨彦が説明すると古論は安心したようで、力を抜いて再びベッドに沈み込んだ。意識が戻ったとはいえ、まだ体力が回復した訳ではないのだろう。安堵した顔だが、その表情には疲労の色が濃く見えた。
「医者を呼んで来る」
昏睡状態だった古論が意識を取り戻したことを伝えに行こうと雨彦は椅子から腰を浮かせる。深夜ではあるが、診てもらった方が良いだろう。
だが扉へ向かおうとした際に、くいと服を引かれて雨彦はその場に留められる。
「古論?」
「あ…、その、……もう少しだけ、ここに居ては頂けないでしょうか…?」
申し訳なさそうに、けれど縋るような目でそう告げられる。本当なら、すぐに戻ると言い聞かせて医者を呼びに行くべきなのだろう。だが、今が深夜であるということと、久しぶりに意識を取り戻した恋人の願いだということもあり、雨彦は素直に椅子に腰を下ろした。僅かな間でも離れ難いと思っているのは雨彦とて同じなのだ。
「わかった」
「…ありがとうございます」
我儘を言ってしまったと思っているのか、願いが叶えられたというのに申し訳なさそうな顔を崩さない古論の頭を優しく撫でる。甘えるように撫でる手に頭を寄せて来るのが愛おしい。
「俺もお前さんと同じ気持ちさ。気にしないで良い」
「…はい」
もう一度小さくありがとうございますと口にすると、古論は微笑んだ。