梅に鶯

 雨彦は鬼に会ったことがある。とはいっても襲われたり悪さをされた訳ではない。
 修練場から出てきた時だっただろうか。それとも境内の掃除をしていた時にふと視界に入っただけか。気が付くとその鬼はいた。
 鬼は人間と同じ形をしていた。だがその身に纏う空気も、表情も人間のものとは全く違うものだった。言い伝えのように頭には角を生やしていたが、それ以上に雨彦を驚かせたのはその美貌であった。その鬼は思わず見惚れるほど整った顔立ちで、薄暗い時間でも分かるほど白く透き通った肌をしていた。胡桃色をした長い髪は艶やかに輝き、髪と同じ瞳は愛おしい物を見るように細められていた。
 鬼とは悪いモノ、退治するべきモノとして幼い頃から教えられて来た。十になった頃からは家のしきたりに従って修練を積んでいるが、身を守る術以外の多くは鬼を筆頭に悪いモノを祓い退治する為のものだ。しかし雨彦の前に現れた鬼からは不思議と嫌な感じがしなかった。むしろどこか惹かれるものを感じた程だ。
「アンタは何者だ?」
 だからそう尋ねてしまったのだ。それは好奇心からでもあったし、少しでも長くこの美しい鬼の姿を目に焼き付けておきたいと思ったからだ。
 鬼は驚いたように目を見開いたが、言葉を発することは無かった。しかし、右足を引き、警戒したように半身程後ずさる。
「危害は加えない。…言葉は分かるか?」
 再度問いかけると、鬼は静かに口を開いた。
「……どうして子供がこんな所に」
 鬼から発せられた声もまた美しかった。鈴の音のような凛とした響きを持つ声で、耳触りの良いそれはいつまでも聞いていたくなるような心地よさがあった。
「どうしても何も、この社はウチが管理してるものだ」
 些か古びておりあまり人が来ることもないが、此処は葛之葉の家が昔から管理している社だった。修練場が近いこともあり、今は雨彦が手入れを任されている。というよりも、修練を積む者が手入れをするのが慣習になっている社なのだ。雨彦と歳の近い者が家にはいない為、雨彦が任されるまでの十年程の間は本当に必要最低限しか人は訪れていないと聞いていた。
「私に近付かない方が良い」
 そう言うと、鬼は雨彦に背を向ける。
「おい! どこに行くんだ」
 慌てて声をかけると、鬼は振り返って小さく笑った。
「私のことは放っておいて良い。早く家に帰りなさい」
 そう言って、今度は振り向くことなく歩き出してしまった。その姿が見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を見送ったことを覚えている。
 あれ以来、雨彦の前にあの鬼が現れることはなかった。
 雨彦は鬼に会ったことを家の人間は勿論、誰にも打ち明けなかった。鬼は悪いモノだと散々言い聞かせられていたにも関わらず。そのことに罪悪感を覚えない訳ではなかったが、他人にその話をしたらもう二度あの鬼に会えない気がしたのだ。
 あの鬼に会って以来雨彦は一層身を入れて修練を行うようになった。強くなれば、大人になれば、あの鬼に子供扱いされずにいられたかも知れないと思ったのかも知れない。自分のことながら、あの頃のことを雨彦はハッキリと覚えていない。ただ、また会いたいとそれだけを強く思っていたことは確かだ。
 それが恋慕なのか、尊敬なのか、あるいはもっと別の感情によるものなのかはよく分からない。だが、もし仮にもう一度会うことが出来たなら、その時こそ自分の気持ちの正体を突き止められるかもしれない。
 
(まさか、本当に会えるなんてな)
 初めて出会った時は夕暮れ時だったが、今回は月夜であるせいだろうか。それともずっと望んでいた相手と再会出来たことによる高揚感か。
 目の前に立つ美しい鬼の姿を見た瞬間、胸の奥底から懐かしさが込み上げてきた。そしてそれと同時に、この鬼に会いたかったのだという思いが溢れ出す。
「久しぶりだな」
 雨彦の言葉を聞くなり鬼は僅かに眉を潜めた。
「貴方に会った覚えはありませんが……」
「十五年以上前の話だからな。俺はまだ半人前のガキだったが、お前さんはあの時のままだ」
「あの時の……、っ!」
 雨彦が一歩足を踏み出した途端、鬼は弾かれたように飛び退いた。
「覚えていてくれたとは嬉しいね」
「近付かない方が良いと言ったはずです」
 鬼は再び距離を取ろうとしたが、今度は後ろへ逃げるのではなく横へと移動する。その動きに合わせて、長い髪がサラリと揺れた。
「何故逃げる?」
「別に逃げたわけではありません。少し距離を取りたいだけです」
「つれないことを言うなよ」
 そう言って雨彦が更に歩みを進めると、鬼もまた同じように横にずれて逃げていく。
「そもそも、貴方は私を退治しに来たのでは?」
「お前さんは退治されるようなことをしたのかい?」
「貴方達にとって、鬼とは問答無用で退治するものでしょう?」
 そう言って鬼は嘲笑する。だがその瞳は酷く悲しげで、雨彦は何故この鬼に出会ってから自分が修練に励むようになったのかを思い出した。
 あの日去って行く時も、この鬼は今のように酷く悲しげな瞳をしていた。――自分に力があれば、あんな悲しい顔をさせないでいられるのではないかと思ったのだ。
 あの日、この鬼は古びた社を愛おしげに眺めていた。それは社そのものを慈しんでいたのではなく、人が作った物を慈しんでいたのではないか。あの日雨彦を遠ざけようとしたのも、もし他の人間に見られたら自身が退治される危険があった以上に、雨彦が鬼憑きとして虐げられることを危惧したのではないか。全ては想像に過ぎないが、きっと間違ってはいないだろうという確信がある。
「確かに俺は祓い屋の家系に生まれたが、俺自身は鬼に対して恨みはない」
「……そうですか。ですが、貴方は依頼を受けて此処に来たのでしょう? ならば、貴方には私を斬る義務があると思いますが?」
「迷子が親切な鬼に案内されて森を抜けただとか、長身の男をこの森で見かけるようになってから畑を荒らす獣が出なくなっただとか、そんな話は聞いたがね。俺は退治の依頼なんて受けて無いし、だからそんな物騒な義務も無い。それに、もしあるとしても、俺がお前さんに危害を加えることはない」
 真っ直ぐに目を見てキッパリと言い切ると、鬼は戸惑うように視線を彷徨わせた。
「……どうして」
「さぁな。自分でもよく分からんが、多分、お前さんのことが好きだからじゃないか?」
「は……!? ︎」
 雨彦の言葉に、雨彦の言葉に、鬼は大きな目を丸く見開いた。その顔があの時と同じ表情だったものだから、思わず笑みが溢れる。
「好きって、何を……」
「一目惚れってやつかねぇ」
「なっ……」
 鬼は白い肌を真っ赤にして言葉を失っていた。その様子を見て、これでは赤鬼だな、なんて他愛のないことを思う。
「なあ、お前さんに提案があるんだが」
「……提案?」
「お前さんさえ良ければ、俺と一緒に暮らさないか?」
「……はい?」
「建前上お前さんは俺に使役されてるということになって貰うが、実際は呪で縛ったりするつもりはないし、お前さんが特別何かすることはない」
「……貴方、本気ですか?」
「もちろん」
 鬼は困惑を露わにした。雨彦自身、こんなことを考えるなんてどうかしていると思う。だが、――再会するまですっかり忘れてしまってはいたが――雨彦が修練に励み力を付けた理由は、全てこの鬼を独りにしない為だったのだ。自分には鬼を調伏し使役していると言っても周囲を納得させることが出来る力があれば、きっと共に在ることが出来ると、あんな悲しい顔をさせずに済むはずだと、そう信じていたのだ。
「私と共に居れば、貴方にも災いが降りかかるかもしれませんよ?」
「それこそ望むところだね」
「私は、貴方のことを知らないんですよ?」
「これから知ってくれればいい」
「貴方は人間なのに、本当に良いんですか?」
「ああ」
「……後悔しても知りませんよ」
「後悔なんてしないさ」
「……本当に変わった方ですね、貴方は」
「よく言われるよ」
 雨彦の言葉を聞いて、鬼は観念したように深く息を吐いた。そしてゆっくりと雨彦に向かって手を差し出す。
 その手をしっかりと握ると、ほんのりと温かかった。
「よろしくお願いします」
 月明かりの下で彼がはにかみながら浮かべた笑顔は、今まで見た何よりも美しかった。