もう少しだけこのままで

 よく晴れた日だった。春の訪れを告げる風は些か勢いが良すぎるが、それも季節の移り変わりを告げる標だと思えばそう悪いものでもない。尤も、掃除をするとなると少々都合の悪い相手ではあるが。
 そんなことを歩きながら考えていると、すっかり通い慣れた事務所ビルが見えて来る。それにしても今日の事務所は一段と汚れが見当たらない。芸能事務所には珍しいが、この事務所ではありがちな光景を見て、きっと張り切った社長が居るのだろうと当たりをつけた。何にせよ綺麗であるのは良いことだ。
 雨彦が階段を登った先にある事務所の扉を開けると、そこには古論の姿が在った。雨彦に背を向ける形でソファに座っている為表情は窺えない。
 今日はこれからユニットで揃って雑誌のインタビューを受ける予定だが、開始時刻はまだ少し先だ。天気の良い今日、古論が既に事務所に居るとは思わなかった。
「おはようさん」
 声をかけるが、古論は振り返らない。雨彦は首を傾げながらもそのまま歩み寄ったところで、普段姿勢良くいることの多い古論がその身体をぐったりとソファに預けていることに気付く。
「古論?」
 呼び掛けながら覗き込むように見下ろすと、ぼんやりとした様子の古論の瞳とかち合った。
「あ…、すみません…。おはようございます、雨彦」
 そう言いながら上体を起こすものの、その動きはどこか緩慢としている。
 寝起きというわけでもなさそうだが、それにしては覇気がない。
「体調が悪いのか? 熱は…」
 言いながら古論の額に手を当てるが、特に発熱している訳ではなさそうだった。だが、直接触れたことで雨彦はあることに気付く。
「すみません、どうにも身体が怠くて…」
「……疲れが溜まってるんだろう。まだ時間はある。少し横になっていると良い」
 雨彦の言葉を聞いて、古論は再びゆっくりとした動作でソファに身を沈めた。そんな古論の様子を見ながら雨彦は彼の隣へと腰掛けると、そっと古論の髪を撫ぜる。突然のことに驚いたらしい古論だったが、抵抗する素振りはなかった。それどころか心地よさそうに目を細めている。
「…不思議ですね、雨彦に触られると身体が楽になる気がします」
 ぽつりと零された言葉を聞きながら、雨彦はやはりそうかと内心呟いた。
「お前さん、ここ暫く海には行ってないのかい?」
 雨彦の問い掛けに、古論は瞳を瞬かせた。それから困ったような笑みを浮かべると小さく縦に首を振った。
「ええ、仕事の場所とスケジュールがどうにも合わず…。本当は今日、海に行ってから事務所に来ようと思ったのですが、高波の注意報が出ていた上に体調が優れませんでしたから…」
 海に向ける情熱は人一倍だが、危険性もよく理解している古論らしい判断だ。だが、今回はそんな理性的で常識的な判断が逆効果となってしまったのだと古論の返答で雨彦は知る。
 古論が今体調を崩しているのは恐らく、正の気が過剰に身体に溜まりすぎているせいだ。事務所に汚れが少なかったのも、正の気を過剰なまでに溜め込んだ古論を汚れが避けた結果だったのだ。
 古論の身体に触れながら汚れを祓うのと同じ調子で気を外へ少しずつ払ってやると、古論の顔色は少しずつ良くなっていく。
 汚れなどの負の気を溜め込んでいると良くないのは言わずもがなだが、正の気であっても溜め込み過ぎると良くない結果をもたらす。物事はバランスが大切なのだ。
 正の気が強い人間は珍しいがそれなりに存在はしており、普通は斎藤社長のように自然と発散出来るのだが、この様子を見るに古論はあまり上手く出来ないクチなのだろう。今の古論は正の気を溜め込み過ぎて身体が限界を訴えている、例えるなら破裂寸前の風船のような状態だった。
 今まではステージやレッスン、或いは海に行く事で発散させていたのだろうが、ステージを行う予定はまだ少し先であるし、故にそれに向けたレッスンもまだ始まってはいない。その上、海に行くことも出来ていないせいで上手く発散させることが出来なかった結果、今のような状態になってしまったのだろう。
 ただ、これまでにも似たようなケースはあった。にも関わらず、少なくともアイドルになってから古論がこのような状態に陥ったのを見たのは今日が初めてだ。
「…お前さん、最近お守りか何かを手放したか?」
 唐突な雨彦の問いかけに古論は少し驚いた様子を見せた後、口を開く。
「先日、想楽と会った際に彼が風邪気味かも知れないと言っていたので、鍵を渡しました」
「鍵?」
「ええ。母方の方では、鍵には病や怪我を治す力があるとされているんだそうで」
 おまじないだ、と昔から持たされていて今も習慣として持ち続けていたのだと古論は言う。
 その鍵が今まで多少正の気を散らしていてくれたのだろうと雨彦は思う。憶測だが、古論の現状と状況を合わせると恐らく殆ど正解で間違いない。本来であれば手放さないで持ち続けていろと言いたいところだが、善意で北村の為にと渡したと聞いてしまえばそうも言えない。
 とりあえず今はこれで多少なりとも古論の負担が減るならばと、雨彦はそのまましばらく彼の頭を撫で続ける。
「…雨彦」
「なんだい」
「もう少しだけ、こうしていて貰っても構いませんか?」
 普段よりも幾分弱々しい声でそう尋ねられて、雨彦は思わず苦笑を漏らしてしまう。
「ああ、構わないぜ。これでお前さんが楽になるなら安いもんだ」
 言いながら雨彦が再び髪を優しく撫でると、古論は安心しきった様子で再び目を閉じた。
 今まで古論自身が上手く扱えない強過ぎる正の気から古論を守って来たのは、家族に渡された鍵と海だったのだろう。そこに自分も加われるというのは悪い気分ではない。
 無論このままにしておくべきではないが、古論自身が感知出来ていない領域のことでもある。幸い、アイドルという仕事は生の気を発散させるのに向いていることだし、時間をかけてより良い方法を探っていけば良いだろうと、どこか言い訳のように考えながら、事務所に他の人間が現れるまで雨彦は古論のことを優しく撫で続けていた。