陽気な喧噪で溢れる店から一歩足を踏み出し扉を閉めると、ひんやりとした静けさが雨彦を包んだ。壁一枚隔てただけで賑やかさがこうも変わるものかと思いながら、薄暗い路地裏の細い道を歩き出す。
夏の茹だるような暑さが嘘のような気候になり、暑がりの雨彦にはありがたい季節になっていた。夜風を受けながらゆっくりと歩いていく。
ふと見上げた空には雲一つなく、煌々と輝く満月が浮かんでいる。その満月を見つめているうちに、ここ暫くの出来事が次々と思い出されて来た。
朝早くからの撮影に始まり、より良い作品にしたいという現場全員の思いからリテイクを重ねたこと、そしてその後に催され先程まで雨彦も参加していた打ち上げ……。そんな慌ただしい日々にもようやく終わりを迎えたことに安堵と満足感を覚えつつ、しかしどこか寂しさのようなものを感じてしまう自分に苦笑する。
今日こうして打ち上げに至った仕事はユニットでの仕事ではなく雨彦単独での仕事だった。仕事の参加者には事務所の仲間達もいたが、いずれも未成年だったので酒が入る前の時間にプロデューサーが家まで送っている。だから今この場にいるのは自分一人だけだ。
心地の良い風に吹かれながら月を見上げる。良い夜だなと素直に思うが、この感覚を分かち合う人がいないことを少しばかり寂しくも思う。
いつの間にか、近くにあの2人がいることが当たり前になっていることに気付く。一人でいる方が気楽だと思っていたはずなのに、今ではこんな風に思うようになっているとは不思議なものだ。
「……ん?」
その時不意にスマートフォンが震える音がした。ポケットの中で振動し続けるそれを取り出すと、画面上に表示されている名前は思い浮かべていた片方の人物のものだった。何事だろうかと通話ボタンを押し耳に寄せる。
『お疲れ様です。今、お時間大丈夫ですか?』
電話越しでもはっきりと聞こえる声音からは、いつも通り落ち着いた様子が伝わってくる。緊急の用事ではなさそうだ。
「ああ、構わないぜ」
『ありがとうございます』
礼の言葉と共に小さく息をつく気配を感じた後、言葉が続けられる。
『お仕事、無事に終わったと聞きました。お疲れさまでした』
「わざわざそれを言うために電話をかけてきたのかい? 律儀だな、お前さん」
思わず笑い混じりの声が出た。相変わらず真面目な奴だと改めて思う。
『それだけ、という訳ではないのですが…、…私は今日から泊まり込みの撮影で、しばらくお会いできないので』
そういえばユニットでのスケジュール確認の際に、古論が「雨彦とはすれ違いになりますね」と言っていた記憶がある。確か今日から数日間は地方でのロケだったはずだ。
「そうだったな。まあ元気に撮影してこいよ」
『はい。急に涼しくなりましたし、雨彦も体調管理に気を付けて下さいね。…それで、ですね』
そこで一呼吸置くように間を空けると、やや躊躇うような雰囲気を感じさせた後に言葉が続けられた。
『月が綺麗ですよ』
その言葉を聞いた瞬間、どくりと心臓が強く脈打った。一瞬だけ鼓動が早まる。
2人の存在は雨彦にとってかけがえのない大切なものになっている。だが、古論に対しては抱く気持ちがそれだけでないことにも気付いていた。
きっと古論は深い意味を込めて言ったわけではないだろう。以前北村に対して文学的表現が苦手だと言っていた男だ、それが愛を語る言葉だとして広く流布していることなど知らないだろう。単に月が綺麗だという感想を述べたに過ぎない。
「…そうだな。俺も丁度月を見ていたところだ」
だから努めて冷静に、言葉通りの意味として受け取った反応を返す。すると電話の向こうの古論が小さく笑う気配が伝わった。
『ふふ、そうなんですか?』
やはりこれで正解だったのだ。そう思いながら、心のどこかが落胆するのを感じる。些細なことに一喜一憂する自分の心に苦笑したい気持ちになった。
「打ち上げの帰りでね。月を見ながら歩いていていた」
ユニットのことが大切なら、自分のこの古論に向ける感情は仕舞い込むべきだ。やっと気付いたかけがえのないものを壊したくなどない。そう思っている。たとえ臆病者と揶揄されようが、失うよりよっぽどマシだ。
『なるほど、そういうことだったのですね』
納得するような声を聞きながら空を見上げれば、そこには変わらず煌々と輝く満月があった。こうして他愛のない話をして、お互い見ている景色の話が出来るだけで十分幸せなのだ。
同じ月を見ていると思うと、不思議な気分になる。まるで今古論と共に歩いているような錯覚を覚えた。
「こうして離れていても同じものを見ているのも感慨深いですが…、貴方と同じ場所で同じものを見て語り合えないのは少し、寂しいですね」
言い淀むような間があった後に続けられた言葉を聞いて、胸の奥が小さく疼くのを感じる。それは痛みというよりも温かく柔らかなものに包まれるような感覚だったが、同時にほんの小さな棘が刺さったようにちくりと痛んだ。
「玉くしげ 明けまく惜しき あたら夜を 衣手離れて 独りかも寝む」
古論に言葉の意味が伝わるとは思っていない。自分の気持ちが通じるとも。だからこそ、口に出した。ただ、古論に聞いて欲しくなった。単なる自己満足だ。
「…?」
「ただの独り言さ、気にしないで良い。あと数日で帰って来るんだろう? それまでの辛抱さ。お前さんが帰って来たら北村も誘って一緒に飯でも食いに行こう。…それよりお前さん、明日も早いんだろう? そろそろ寝た方が良いんじゃないか」
怪しまれる前にと話を逸らす。自分の気持ちを誤魔化すように言葉を重ねた。不思議そうにしている古論の様子を想像しながら、雨彦はまた小さく笑みを浮かべた。
「…ええ、そうします。雨彦、あなたも早く休んでくださいね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
挨拶を交わした後で通話を切る。それからしばらくの間、雨彦は空に浮かぶ満月に見入っていた。