「ごめん、潰しちゃった」
と雨彦に連絡が入ったのは暫く前のことである。一体何を、という疑問を伝える前にされた説明を受けて「すぐに向かう」と考える前に口に出していた。
急ぐあまり道中のことを全く覚えていないが、事故を起こしていないのでまあ良いだろう。指定された店の戸をくぐり、出て来た店員には既に席にいる客の連れだと伝える。足早に向かった先にいたのは、申し訳なさそうな顔をした同僚2人とテーブルに顔を伏せている古論だった。
「呼び出しちゃってごめんね。連れて帰ろうかとも思ったんだけど、俺たちクリスの家知らなくて」
「どっちかの家に連れて帰るのも考えたんだけど…」
「いや、連絡入れてくれて良かったよ。特に用事があった訳じゃ無いし、古論の自宅も知ってるし、な」
同僚2人——渡辺と山下の言葉に答えながらカウンターのテーブルに突っ伏している古論の方を見るが、長い髪のせいで顔は伺えない。だが穏やかに肩が上下しているのを見るに寝てしまっているようだ。古論が酒に弱いという印象は無いので珍しいとは思うが、渡辺が「潰した」と言っていることを考えると普段以上に呑んだのだろう。
一体どうしてこんなことになったのかとは思うが、それよりも目の前の古論を何とかしなければならない。自宅へ送るにしても、ここから動いて貰わないとどうにも出来ないのだから。
「おい、古論」
「んう…」
雨彦が呼び掛けても、不明瞭な声が返ってくるだけだ。身動ぎした拍子に髪の毛が動き顔が見えたが、目を開ける様子はない。だが、酒で上気した顔で悩ましげな声を出す今の古論は大変目に毒だった。
雨彦は一瞬目を逸らすように俯き、しかしすぐに気を取り直してもう一度声を掛けた。
「古論、起きろ。送っていくから帰るぞ」
「……はい……帰ります」
やっと反応があったが、やはり意識はまだ夢の中にいるようで、瞼を開く気配もない。雨彦はため息をつくと、仕方ないとばかりに背を向けた。
「ここの支払いは?」
立て替えるつもりでそう尋ねると、苦笑いしながら2人が答える。
「あー、いいよ。こっちでしとくから気にしないで」
「相談に乗るって言ったのに、結局ロクに乗れないまま潰しちゃったのはこっちだしねぇ」
相談、という言葉に雨彦は僅かに眉を顰めるが、口を滑らした山下の脇を即座に渡辺がつつき「気にしないで」と言って来たので雨彦はそれ以上追求しなかった。気にするなとは言っているが、その件に関しては聞いてくれるなということだろう。
「……じゃあすまないが、コイツは連れて帰るから、あとは頼む」
「車で来たんだよね?」
「ああ。近くの駐車場に停めてある」
「連れてくっていっても大変じゃない?手伝おうか?」
「大丈夫だ。お前さんたちはゆっくり呑んでてくれ」
雨彦はそう言うと座っている古論の背に右手を当て、左腕を膝裏に回すと一息で抱き上げた。所謂お姫様抱っこだ。
身長180cmを超える成人男性をお姫様抱っことは、随分力持ちなことだと2人が感心している間に、雨彦はさっさと店を出て行った。残された2人はその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
「……ころんの相談には乗れなかったけど、大丈夫そうじゃない?」
「連絡入れたら即来たしね」
苦笑しながら渡辺と山下がそう会話を交わしていたことを雨彦も古論も知る由はない。
***
腕の中で気持ち良さそうに眠る古論の顔を見て、雨彦は何度目かのため息をつく。
この様子では明日は二日酔いだろうかと思いつつ、起こさないよう注意して足を進めた。
古論を抱えたままどうにか車のキーを開けドアを開く。後部座席に寝かそうと少し屈んだところで、古論が何か呟いていることに気が付いた。
「あめひこ…どうか、近くに……」
「…………」
寝言なのだろうが随分と甘い響きで発されたそれに、思わず動きを止める。腕の中の古論は穏やかな寝息を立てているが、雨彦は数秒の間動けず固まっていた。
(なんだ、今のは)
耳元で囁かれた訳ではない。だが、確かに聞こえた。古論は雨彦の名前を呼んでいた。はっきりと、間違いなく名前を呼ばれたのだ。
雨彦は古論を静かに後部座席へと下ろすと、自分も運転席に乗り込んだ。エンジンをかけ、ハンドルを握るが、なかなか発進させることが出来ない。
「……」
雨彦は無表情のまましばらく考え込むと、助手席に置いてあったブランケットを手に取り、古論の身体に掛ける。そしてそのまま何も言わずに車を発車させた。
2人を乗せた車は夜の街を走り抜けていく。
「……雨彦」
数時間後、すっかり寝入っていたはずの古論の声で雨彦は目を覚ました。古論の家へ送り届けるつもりではあったが、古論があまりにもぐっすりと寝ているので結局雨彦の自宅に連れて来たのだ。ベッドを眠る古論に譲り雨彦は椅子に座っていたのだが、うたた寝をしていたらしい。寝るに適した場所でも姿勢でもなかった割には、普段よりよっぽどしっかりと寝ていたなと他人事のように思う。
「起きたのか。気分はどうだい?」
「……あの、すみません。ご迷惑をお掛けしてしまったようで……」
しゅんと肩を落とす古論の様子は普段と変わらないように見えたが、よく見ると顔色はいつもより悪い気がした。
「気にすることはないさ。それよりお前さん、酒に弱かったか?」
「いえ、そんな事はありませんよ。今回はたまたまです」
古論はそう言いながらベッドから脚を下ろす。まだ完全には覚醒していないようで、動きは緩慢だったが、それでもしっかりとした受け答えをしているので問題ないだろうと判断した。
「しかし、珍しいこともあるもんだな。お前さんが潰れるとは」
「……すみません」
「いや、謝って欲しい訳じゃない」
水でも飲むかい?と尋ねると古論はゆるゆると首を左右に振った。飲んだ方が良いと思うが、本人がいらないと言っている以上無理に飲ませることは出来ないだろう。
「それで、ここはどこですか?」
見覚えのない部屋であることに気付いたらしい。きょろりと辺りを見回している。
「俺の家だ」
「あぁ……道理で」
「随分ぐっすり眠っていたが、夢でも見ていたかい?」
「ゆめ、ですか?」
首を傾げる古論の反応はどこか鈍い。やはりあまり調子が良くなさそうだと思いながらも、雨彦は言葉を続けた。
「お前さん、俺の名前を呼んだぞ」
「名前?……あ、」
ようやく思い出したらしく、目を大きくして雨彦を見た。元々然程良くなかった顔色から更に血の気が引いたように見える。
「すみませんでした……。その、無意識というか…」
「いや、別に謝る必要はないんだが。どうしてあんな呼び方をしたのかなと思ってな」
「それは……」
雨彦の問いに古論は目を伏せて黙り込んでしまった。先程まで普通に会話をしていたはずなのに、急に口籠もってしまった様子に雨彦は少しばかり違和感を覚える。
「古論?」
呼びかけても返事はなく、代わりに小さな声が返ってきた。
「雨彦は、私のことを嫌っているでしょう?」
「は?」
思わず間の抜けた声を出してしまったが、古論は構わず話を続ける。
「私はあなたの優しさに甘えてばかりですから…」
「おい待て」
突然何を言い出すのか。雨彦は慌てて古論の言葉を遮った。
「誰が誰を嫌っているって?」
「雨彦が、私を」
「なぜそうなる」
心底意味がわからないといった表情をする雨彦を見て、今度は古論の方が驚いたような顔をした。
「最近会話の折に不自然に言葉が途切れたり、あなたが私に対して距離を置いているような気がして……、きっと私が何か不躾なことをして、嫌われてしまったのだろうと…」
真面目な顔でそう口にする古論に、雨彦は頭を抱えたくなった。
心当たりは確かにある。会話の途中で不意に古論の口元や顔を意識してしまい言葉が出て来なかったり、そんな自分に戸惑い気の迷いだと思おうとしてそれとなく距離を置いていたのは事実だ。だが悟られぬようにしていた筈のそれら全てが伝わってしまっているとは思わなかった。その上、何故雨彦がそういう行為をとったのかは正確に伝わらず、それどころか180度逆転した感情故だと受け止めてしまっていたのは予想外にも程があったが。
考えてみれば、古論が渡辺と山下にしていた相談というのは雨彦に嫌われていると思っていた件なのかも知れない。尤も、その相談を受けていて酔い潰れた古論をどうにか出来ないかと雨彦に連絡を入れて来るのだから、渡辺と山下は雨彦が古論を嫌っているというのが誤解であると分かっていたのだろうが。或いは、コレで来なければ嫌っているのが真実なのだろうと確かめたのかも知れない。
渡辺から一緒に呑んでいて古論を潰してしまったと連絡を受けた際、雨彦がどんな気持ちになったと思っているのだろうか。例えユニットメンバーであろうが、嫌っている…しかも酔い潰れている人間を引き取りに向うほど雨彦はお人好しではない。
しかしそれをどう説明すればいいのかわからず、とりあえず雨彦は溜め息を吐いた。
「俺はお前さんのことが好きだぜ」
「えっ」
唐突な告白に古論は驚きの声を上げる。らしくもない、直接的な言葉だという自覚はあったが、これ以上古論に勘違いされる方が堪える。
「何を驚いているんだお前さんは」
「そ、それは仲間としてという意味でしょうか」
「……それ以外に意味があると思うかい?」
「あ、そう、ですね……はい」
意地の悪い返しをした自覚はある。明らかに残念そうな反応を見せる古論に少しばかり罪悪感を覚えつつ、雨彦はそれに気付かぬふりをして続けた。
「お前さんこそ、俺のことはどう思っているんだ?」
「えっ?」
まさか自分に話が振られるとは思ってもいなかったようで、古論はぴたりと動きを止める。
「わ、私は」
何か言わなければと思ったらしいが、上手く言葉が出てこないようだった。
「無理に言う必要はないが」
「いえ!言います!」
「そうか」
勢いよく宣言した古論は、深呼吸した後でゆっくりと口を開いた。
「……あなたはとても優しい方だと思います。いつも冷静で周りをよく見ていて、それでいて自分の意見もしっかり持っている……とても尊敬しています。それから、」
そこで言葉を切って俯く。しばらくして顔を上げたかと思えば、真っ直ぐに雨彦の目を見つめて言った。
「……私は」
ぽつりと呟かれた声が室内の空気を振るわせる。
「私はあなたのことが好きなんです」
絞り出すような古論の声で告げられた言葉に頭がくらりと揺れるような感覚を覚える。
「古論」
「わかっています。あなたは私のことを仲間として好ましく思ってくれていることも、私が抱いている感情とは違うことも。ですから、私はこの気持ちを持てるだけで良かったのです」
「お前さんはそれで満足なのか?」
「はい」
即答した古論に雨彦は何も言えなかった。
「だって私はアイドルですから。恋愛なんてものはご法度でしょう?」
確かにその通りだと雨彦も思う。だが、それと同時にそれくらいで諦められる程度の想いだという風にも受け取れた。それが、少し気に入らない。自分だって気持ちを悟られないように距離を置く選択をしたのに、自分勝手なものだと雨彦は内心自嘲する。
「だから、本当は伝えるつもりもありませんでした。あなたにも迷惑をかけてしまうかもしれませんから」
嫌われていないのなら、それだけで良かった。とても良かったと思っているような表情ではないまま、無理矢理に古論は笑顔を作ってどうにかそう口にする。
「迷惑じゃない」
あまりにも痛々しい古論を見て、雨彦は気が付けばそう口にしていた。
「俺はお前さんのことは嫌いじゃあない。さっきも言った通りむしろ好ましいとさえ思ってる」
「はい」
「それに、お前さんが言ったんじゃないか。『好き』というのはライクではなくラブの方なんだろう?」
「…はい」
「だったら、」
そう言って雨彦はゆっくりと立ち上がった。そしてベッドの端に座っている古論の腕を掴む。
「あ、雨彦?」
「なぁ、古論。本当にそれだけなのか?」
「他にどんな意味があるというのですか?」
「たとえば」
雨彦は掴んでいた腕を引き寄せると、そのまま古論を自分の方へと抱き寄せた。
「こういうことをしたいと思ったことはないか?」
耳元に囁きかけるように問いかければ、古論の肩が小さく跳ね上がった。
「私、は」
「俺のことが好きなんだろう? だったら少しくらい期待しても罰は当たらないんじゃないのか?」
「でも、そんな」
「少なくとも俺は、このまま何もなかったことにされる方がつらい」
抱きしめた古論の身体が震えている。
「好きだ、古論。仲間としてではなく、お前さんを愛している」
お前さんから言葉を引き出した後に言う事でもないかも知れないが。そう言うと、小さく古論が笑った気配がした。
「……雨彦はずるいです」
「ははっ、違いない」
何せ自分から伝えようとはしなかった癖に、古論から好意を向けられていると知った途端にコレなのだ。ずるいことをしているという点に異論はない。
古論は抵抗しなかった。代わりにそっと雨彦の背中に手を回して、服をぎゅうと握り締めた。
「古論」
「はい」
「好きだ」
「私も、雨彦のことが好きです」
雨彦は古論を抱く手に力を込めると、そっと唇を重ねる。
初めてのキスは薄らと酒の味がした。