北の海濱に立つ

 時折車を揺らすほどの強風に、まさか飛ばされはしていまいなと視線を上げると先程と変わらぬ姿の古論が目に入る。
 古論は長い髪とコートの裾をはためかせながら、春の嵐などまるで意に介さぬように真っ直ぐ海を見つめ続けていた。

 レッスンが終わった後、時刻を確認している様子の古論に逢瀬の予定でもあるのかと軽く声をかけると、今から海に向かうのだという答えが返って来た。
 時刻は既に夕方を過ぎており春とはいえ日が暮れるとまだ肌寒さを感じる上、今日は風も強い。まさかこれから潜りに行くつもりなのかと咎めるようなニュアンスで北村が口にすると、流石に潜りはせずただ海を眺めに行くのだと言う。
 雨彦も北村も、古論が海に傾ける情熱と好意を知っていた。元助教なこともあって海に関する知識も豊富であり、それだけに海の危険性も十分に理解しており無謀なことをするとも思ってはいない。だが今日は雨こそ降っていないものの天候は良いとは言えず、海に向かうことを心配する北村の気持ちも理解出来る。
 そこで雨彦が提案したのは、古論を自分の車で海に連れて行くことだった。

 今後の予定を簡素に連ねたプロデューサーからのメッセージを確認しスマートフォンから目を上げると、先程まで海辺に佇んでいた筈の古論の姿が消えていた。
 まさか、と思いつつ周囲を見回そうとすると車の脇に影が現れる。両手に何かを持った古論だと認識し、すぐに内側からドアを開いてやる。
「お時間を取らせてしまってすみません」
「なに、特に予定も無く帰宅するだけだったからな。気にしないで良いさ」
 これを、と古論が差し出して来たのは缶コーヒーであった。
「お礼…というにはささやか過ぎますが」
「悪いな」
 黒い缶を手に取り例を述べると、どこかホッとしたように古論は笑う。
 プルタブを開け温かい液体を口にすると、車内にほんのりとコーヒーの匂いが漂った。相変わらず車を叩くように吹き付ける風の音を聞きながら古論の方を向くと、缶コーヒーを抱えたままに海の彼方を見詰める横顔が見えた。
「…もう良いのかい?」
 もう少し見ていても構わないのだと雨彦が言うと、古論は何処か困ったような顔で首を振った。
「あまり、長居していても仕方ありませんから」
 仕方ないという言い回しに少し引っかかるものを感じたが、雨彦はそれを問うことはしなかった。そうか、とだけ口にしてコーヒーを啜る。
「今日のように風の強い日は、海を見たくなるのです」
 とはいえ仕事を終えてから向かおうとしても、帰りの電車が限られて来るので見られないことも多いのですが。どこか憂いを帯びた瞳で古論が口にする。
「ですから、雨彦が海へ連れて来てくださって大変ありがたかったです」
 ありがとうございますと頭を下げる古論は、もういつもと同じ調子のように雨彦には見えた。
「お前さんの役に立てたんなら嬉しいよ」
 さて帰るとしようか、と雨彦が声をかけると、はい、と返事が返ってくる。子供のような素直さに思わず笑みが溢れた。
 駐車場から出る際にちらりと助手席を伺うと、古論はやはり真っ直ぐに海を見つめていた。
 普段あまり我儘のようなことを言わない古論が、天候が良いとは言えない強風の日にどうしても海に向かいたいというからには何か理由があるのだろう。人間誰しも打ち明けないことはあるだろうし、雨彦も全てを打ち明けて欲しいとは思っていない。
 けれど、いつかその理由を話す気になる時が来れば良いと、美しい男の憂いた横顔を見ながら雨彦は思った。