蔭へ呼ぶもの

 名前を、呼ばれた気がした。
「どうしたのー?」
 振り向いて後方を見やるが視界が及ぶ範囲には誰も居ない。
 ロケ地に忘れ物でもしたのかなー? とのんびりと尋ねる想楽に、クリスは否定を返す。
「何か聞こえた気がしたのですが、気のせいだったようです」
「ふーん。鳥か何かがいたのかもねー」
「そうかも知れません」
 それきり想楽は興味を無くしたようで少し前を歩いていたプロデューサーに追い付いて何かを話しかけ始めた。しっかりしている彼のことだから、スケジュールの確認か何かをしているのかも知れない。
 想楽には言わなかったが、聞こえたのは確かに自分の名前だったように思う。そして、その名前で自分の事を呼ぶ者は今この場には居ない筈だった。
 だからきっと、気のせいだったのだろう。そう結論付ける。
 自己解決をして隣にいる筈の雨彦に目を向けると、何やら険しい顔をしていた。いつも飄々としている彼にしては珍しい表情だな、と思う。
「どうしましたか、雨彦」
「ん? ああ、いや…、ちょっとな」
 煮え切らない返答もまた雨彦には珍しかった。だが、彼が明瞭に答えないということは答える気がない時なのだと、長くはないが短くもない付き合いの中で学んでいる。雨彦は必要があればきちんと話をしてくれる人間だ。
「そうですか」
 だから追求はしなかった。最初に見た険しい表情が気にはなったが、雨彦はきっと触れて欲しくないのだろう。
 彼が困っているようなら助ければ良い。それが自分に出来るかどうかは分からないが、出来るように在りたいと思う。

***

 今日の仕事場所であるロケ地周辺に“居る”ことは気付いていた。だが掃除する類のものでも無いし、部外者がそれなりの人数でやって来ても居るだけで特に反応する事もなく、興味が無さそうだったので雨彦も特に気にはしていなかったのだ。
 だがとんだ勘違いだったらしい。帰り際、古論が“それ”の方を振り返った。雨彦には“それ”の声は聞こえなかったが、恐らく古論の名前を呼んだのだろうとは推測出来た。
 古論が戻ろうとするなら引き止めなければならない。声に呼ばれて往ってしまえば、もう二度と会う事も出来なくなるだろう。
 突然古論が走り出しても対応出来るようにそれとなく警戒をしたが、当の古論は北村に話し掛けられた事もあってか戻ろうとする事はなかった。あまり強く呼ばれている様子でも無いのでひとまずは安心だろう。
 どうやら、古論クリスという男は様々なものを惹き付ける体質らしい。本人は全く気付いていないようだが、良いものから悪いもの――その判別がつかないものや表裏一体なものまでもが彼に惹かれて来る。Legendersとして短くもないが長いともいえない時間を共に過ごしているが、今回のような事も初めてではなかった。それどころか思っていた以上に頻繁で、よくも今まで無事で過ごせていたものだと雨彦は呆れ半分で感心してすらいる。
 だが、今までが無事だったからといって今後も無事だとは限らない。今回は日帰りのロケだったからまだ良かったが、数日泊まり込みで行うロケであればもっと強く呼ばれていただろう。
 いい加減何か対策を考えた方が良いかも知れない。今のところはユニットとして雨彦が近くにいる事ができているが、今後は事務所の他のメンバーとで仕事を行う事もあるだろう。何かがあってからでは取り返しがつかない。
「どうしましたか、雨彦」
 不意に古論が雨彦に話し掛けて来た。北村との話は終わっていたらしい。
「ん? ああ、いや…、ちょっとな」
 上手い返しが思いつかなかったので素直に言葉を濁す。ただでさえ自覚の無い古論に本当のことを話す訳にもいくまい。
「そうですか」
 幸いな事に、古論はそれ以上追求しては来なかった。意外にも思えるが、海関係で無ければ思慮深く落ち着きのある方の人間なのだ。尤も、些細な事でも即座に海に絡めてくる彼と海が関わらない会話を続けるのは相当難しいが。
「さて、どうしたもんかね」
 誰にも聞こえないようにひとりごちて、雨彦は思考を巡らせる。何処の何とも知れぬモノに隣で歩く男を易々とくれてやる気など毛頭無かった。