イベント前のとある日の風景

 深く息を吐く音が聞こえた気がして振り返ると、壁に背中を預けたまま俯いて酷く疲れた顔をしている古論クリスが目に入る。いつも姿勢良くしている彼がそうしているのを想楽は初めて見た。
 これがもうひとりのユニットメンバーである葛之葉雨彦であるなら揶揄うなりする悪戯心も芽生えたのかも知れないが、クリスであったのでただただ珍しいなと思う。
「クリスさん、どうしたのー?」
 近くに想楽がいることにも気付いていなかったのかクリスは一瞬ハッとしたような顔をして、すぐに笑顔を浮かべる。その中にもう疲労の色は見えないが、先程の表情を見た以上はなんでもないとは思えなかった。
「想楽ですか。少し休憩をしていただけですよ」
「そうー? それなら良いんだけどー」
 嘘ではなさそうだと想楽は思う。少なくとも自分の目には、クリス本人は本当にそう思っているように見える。それに、この歳の割に幼いところのある同僚はあまり嘘や繕うことをするような人だとも思えなかった。
 だから、その言葉は事実ではあるのだろう。
 ただ、本人が気付いていない内に疲労を溜め体調を崩しかけているということもある。おまけにクリスはそういった自分のことには疎そうな人だなという印象もあった。一応、リーダーである雨彦に報告をしておいた方が良いかも知れない。彼の洞察力——或いは他の何か——には、想楽も一目置いている。
「北村さん、古論さん、出番です」
 スタッフに声をかけられ、返事をしてステージの袖へ向かう。名を呼ばれなかった雨彦はもう袖に控えているのだろう。
 隣を歩くクリスの横顔を見ると、いつもより幾許か顔色が悪いようにも思えた。先入観かも知れないし緊張しているからかも知れない。或いは単に照明の調子でそう見えるだけかも知れない。だが、こういった懸念材料はリーダー伝えておくべきだろう。
 用件を伝えるチャンスいつ頃か、と考えながら想楽はステージを目指した。

***

 寝息すら立てずに眠る古論を見て雨彦は溜め息を吐く。
 古論クリスという人間は限界に至るまで動き続けるタイプの人間であるようだった。頭痛や発熱など諸症状の自覚はしっかりとあるというのに、まだ動けるのだから問題は無いという判断に至るらしい。以前、顔色が悪いが体調でも優れないのかと聞いた際に「頭痛はしますが本も読めますし大丈夫だと思いますよ」と何でもないように返され、他人事のような返答に雨彦は唖然としてしまった。顔色が変わるほどの頭痛に襲われておいてそれか、と。
 以来、体調が悪そうであれば声をかけ強制的に休養を取らせるようにしていたのだが、どうやら古論は体調不良にならないように心掛けるのではなく雨彦に体調不良を察知されないようにするという方向に進んだらしい。どうも行動不能にさえならなければ体調不良ではないと思っている節があったので、考えてみれば当然の成り行きか、と今更雨彦は思う。そこに思い至らなかった自分の落ち度だろう。
 北村に「さっき裏でしんどそうにしてたんだけど、クリスさん具合悪いのかなー? 雨彦さんはどう思うー?」と声を掛けられたのは自分達のステージが終わった後、衣装から私服へと着替えている最中だった。
 ステージで問題は無かったし、僕の思い過ごしかもしれないけどー、と続ける北村の表情には言葉とは裏腹に少し苦いものが感じられた。確信を得られず歯痒く思っているのかも知れない。
 雨彦が古論の方を見やると、彼は見られたことに気付いたらしく疑問符を浮かべながらもにこりと笑い返して来た。いつも通りに。
 きっと北村に言われなければ、そして思い当たる節が無ければ、古論が無理を押していることには気付けなかっただろうと雨彦は思う。
 北村にはハッキリとした判断は告げなかったが、念の為に休ませておくという旨を伝えると幾分安心したようだった。個人主義の色が強いユニットではあるが、なんだかんだでお互いのことを気に掛けてはいるのだ。
 半ば無理矢理に自宅へ連れて帰る際、古論はしきりに事務所へ向かいたがっていた。理由を尋ねても珍しく言い渋るので、雨彦は聞き出すのを諦め最終的に布団へと古論を押し込んで今に至る。
 横になってすぐ眠りに落ちてしまう程に疲労を溜めているというのに、どうしてこの男はこうまで休息を摂ろうとしないのだろうか。
 朝になったらどう注意をすべきか悩みながら、雨彦は自分の布団の中で眠りに落ちていった。

***

 目を覚ますと自室とは違う天井が目に入る。
 一瞬状況が把握出来ずに戸惑うが、そういえば昨日は雨彦の家に連れて来られたのだったと思い出す。
 室内は暗いが視界が全く利かないという訳でも無い。視線で時計を探し時刻を確かめると、まだ始発電車が運行するよりも1時間ほど前を指し示していた。ここから駅へはそう遠くもなかった筈だ、と以前訪れた際の記憶を掘り返し、到着までにかかるであろうおおよその時間を計算する。今から支度をして向かえば間に合うだろう。
 近くに布団を敷いて寝ている雨彦を起こさぬよう布団から抜け出す。クリスは以前、雨彦から眠りが浅いのだと聞いたことがあった。ただでさえ迷惑をかけてこうして家にまで泊まらせて貰っているというのに、こんな朝早くに起こしてしまっては申し訳がないにも程がある。
 それに、こんな時間に出て行こうとしているのを知れば雨彦は確実に自分のことを止めるだろう。個人主義なユニットであると言う割には、雨彦も想楽もとても優しいのだ。だが、自分の目的の為に今はその優しさが少し心苦しいのも事実だった。
 クリスは息を潜め、極力音や風を立てぬように布団を畳み、綺麗に掛けられていた上衣を着る。
 このまま出て行ってしまってはあまりに不躾だろう。書置きか何かをしていくべきかと思いポケットを漁りメモを探していると、背後から声がかかった。
「お前さん、こんな時間に何処に行こうっていうんだい?」
「――すみません、起こしてしまいましたか」
「普段よりも長く寝ていたぐらいだ。気にしなくて良い」
 雨彦の声はとても優しく、だが決して逃がすつもりはないという強さを感じさせた。雨彦にそのつもりはなく、クリスが罪悪感を覚えているからそう聞こえるだけかも知れないが。
 まだ深夜と言って差し支えのない、薄暗い部屋に暫し沈黙が流れる。雨彦は、クリスが言葉を発するのを待っているようだった。
「…レッスンを、したかったのです」
 観念して、そう口にする。
「レッスン?」
「はい。…少しでも長く、多くやっておきたくて」
 不安だった。今までは同じステージに雨彦と想楽が共にいたが、今度のステージには自分が一人で立たなければならない。勿論、選抜された他のユニットのメンバーは居る。だが今回のツアーは基本的にソロ曲を披露するものなのだ。クリスの出番となれば彼等の助けを借りることは出来なくなる。おまけに上達したと言ってもらえているとはいえ、クリス自身は歌を不得手としている。そんな状況なのだから、いくらレッスンを積んでも足りない気がして仕方がないのだ。
 Legendersとしてステージに立つ時に緊張をすることはあったが、ここまで不安になることはなかった。自分でも気付かぬ内に雨彦と想楽に頼り切っていたのかも知れないと思い、それがますますクリスの気持ちを追い詰めた。
「一人でステージに立つことが、とても心細く思えてしまって。もっとレッスンを重ねておかなければいけない気がして仕方がないのです」
 失敗することは許されないと強く思う。今の自分はLegendersの一員であり、315プロの一員でもあるのだ。期待や信頼に応える為にも、もっと練習が必要だった。その為には寝ている暇すら惜しい、それが本音だ。
 俯いて心情を打ち明けると、雨彦がため息を吐く音が聞こえた。呆れさせてしまっただろうか。失望させてしまっただろうか。雨彦がどんな表情をしているのかを確認するのが怖くて俯いたままでいると、ふわりと頭を撫でられる。
「お前さんは真面目だな」
 少し真面目すぎるくらいだ、という声音はとても優しくて、そろそろと顔を上げて雨彦を見ると、その表情もまたとても優しいものだった。
「プロデューサーは、お前さんならやり遂げられると思って次のメンバーにお前さんを入れたんだ。もう少し自信を持ちな」
「ですが…」
「歌に苦手意識があるんだろうが、今のお前さんなら大丈夫だ。俺が保証する。…まあ、俺なんかの保証じゃ頼りにはならんだろうが」
「そんなことはありません!」
 つい声を荒げてしまってからハッとする。
「すみません…。ですが、雨彦のことはいつも頼りにしています。頼りにし過ぎているんじゃないかと却って不安になるくらいで…」
「そうかい、それは光栄だ」
 次第に小さくなって行くクリスの声を救い上げるように雨彦が言う。
「頼りにされるのは悪い気がしないな。それにお前さんが言うほど、お前さんは誰かに頼りきりにはなってないと思うがね」
「そうでしょうか…」
 未だ浮かない表情をしたクリスに苦笑しながら雨彦が言う。
「まだ不安だと言うならレッスンに付き合おう。一人でやるよりも他人の目があった方が改善もしやすいしな」
「ですが、そこまで甘える訳には」
「ユニットメンバーの大舞台を成功させる為に、当然のことをするだけだ。気に病む必要なんてない」
 やはり雨彦は優しい、とクリスは思う。
「…ありがとうございます」
「そうと決まれば、もう一度寝るとしよう」
 レッスンに向かうにしてもまだ早すぎる、休養も練習の内だ、と言うと雨彦はクリスの上着を脱がせ、自分の布団へ引き込んだ。
「雨彦?!あの…」
「お前さんの布団は畳んじまってあるし、敷き直しても良いが、また抜け出されでもしたら敵わん。少し窮屈だが寝れなくはないだろう?」
 そう言われてしまうと拒否も否定も出来ず、クリスは小さく肯定を返す。
「おやすみ、古論」
「——おやすみなさい」
 近くに感じる雨彦の体温が心地良く、クリスは久方振りの穏やかな睡魔に身を任せた。