窓の外に輝く月がグラスの中でキラキラと煌めく氷のようだ。しかし、実際は涼やかさとは無縁の夜に雨彦は辟易としていた。
まだ五月になったばかりだというのに真夏日一歩手前まで行った気温は夜になっても下がらず、じっとしているだけでもじんわりと汗ばむほどだ。梅雨前の湿度の高さも相まって不快感を増幅させる。クーラーを起動させたいところだったが暫く動かしていない間に不具合を起こしたらしく、修理は明日を待たねばならない。
雨彦は夜空を登り終えた月を恨めしげに眺めるが、体感気温が下がる訳でもない。床につく前に冷たいシャワーも浴びたが、あまり効果はなかったようだ。
元々あまり寝付きが良くない上にこの暑さでは眠る気にもなれず、夜空を眺めながらただ時間が過ぎるのを待つばかりだった。
「…眠れませんか?」
不意に声をかけられ視線を動かすと、隣で横になっていたはずのクリスの顔があった。
「すまない、起こしちまったかい」
「いえ…、私もなかなか寝付けなかったので」
そう言って古論は微笑むが、下手な嘘だなと雨彦には分かった。何かに熱中して寝食を忘れることはあるが、古論は基本的に寝付きが良い。研究や観察の為に野宿をすることもあるくらいで、環境が変わったから寝られないなどということとは無縁なのだと以前何かの折に口にしていた。
今日も横になってすぐ寝息を立て始めた様子だったので、すっかり寝入ったものだとばかり思っていたのだが。
「……眠れませんか?」
先程と同じ問いを投げかけられたことで、自分が答えを口にしていないことにようやく気づく。誤魔化そうとしたところでもう遅いだろう。諦めたように小さくため息をつくと、雨彦は再び口を開いた。
「そうだな…。暑いせいか、どうにも目が冴えちまってね」
「確かに今夜は少し蒸しますね」
雨彦の言葉を聞いて古論も同意を示す。海に潜ることをフィールドワークとしている古論にとっては好ましい気候になって来ているのだろうとばかり思っていたが、いまひとつ浮かない表情をしているように見えた。
「水を、持って来ますね」
起き上がった古論がベッドから抜け出してキッチンへ向かう。パタンという扉の音を聞きながら、雨彦はもう一度窓の外を見上げた。
雲一つない夜空に浮かぶ月はとても明るく見える。それが一層暑苦しさを増長させているような気がした。
ややあって戻ってきた古論の手にはペットボトルの水があった。透明なプラスチック容器越しに見える水はゆらりと揺れて見える。
「ありがとうさん」
礼を言いつつ受け取ったボトルのキャップを開けると、一口含む。冷たい水が喉を通っていく感覚が心地良かった。
そのまま二口三口飲んでいる間、古論は何も言わずにその様子を見守っていた。その顔には心配そうな色が滲んでいる。
半分ほど飲んだところで蓋をしめると、再び古論が口を開いた。
「…眠れそうですか?」
問われた言葉に苦笑するしかない。ここまでくれば隠し通すこともできないなと思いながら、雨彦は正直に答えることにした。
「そうだな…、努力はするさ」
雨彦が肩をすくめると、古論はその端正な顔を曇らせる。そんな顔をさせたい訳ではないのだが、自分のせいであると思うといたたまれない気持ちになる。とはいえここで寝れそうだと嘘をついても、今の古論には通用しない気がした。
寝付きが悪く、満足に睡眠が取れないのは今に始まったことではない。だが、それを伝えたところで古論は納得しないだろうし、ますます心配させるだけだろう。どうしたものかと考えているうちに、ふとある考えが頭に浮かんできた。
「なあ、古論」
声をかけると、古論の顔がこちらに向けられる。
「はい、なんでしょう?」
不思議そうに見つめてくる瞳を見返しながら、雨彦はゆっくりと言葉を紡いだ。
「お前さんの体温で温めてもらえたら、すぐに眠れるような気がしてきたよ」
冗談めかすように告げた言葉に古論は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後で、不安そうな顔をする。
「私は構いませんが、暑苦しくて眠れないのなら他人の体温で温めるのは逆効果にならないでしょうか…」
真面目な顔で悩む姿を見ながら、どうか他の人間にも同じ反応をしてくれるなよと心の中で願う。
「暑いのは苦手だが、お前さんの温もりだと思えば苦にならなさそうなんでな」
言いながら手を伸ばして頬に触れると、古論は驚いたように目を丸くしたが、やがて嬉しそうにはにかむ。
「では、失礼しますね」
そう言うと古論は雨彦の腕の中に潜り込むようにして身を寄せてきた。おずおずと背中へ腕を回される感触が愛おしい。
「暑苦しく思ったら遠慮なく離してくださいね」
念押しするように言われた言葉に対して小さく笑いながら、雨彦は古論を抱き締め返した。
「…おやすみなさい」
古論が囁き、静かに目を閉じる。
雨彦も同じようにしながら、古論の鼓動を聞いていた。規則正しいリズムが耳に響く。
トクントクンと脈打つ音に合わせるように呼吸をすると、古論の匂いを感じた。
眠れないまま朝を迎えてしまっても構わない。もう少しだけこのままで。
そんな思いとは裏腹に次第に重くなる瞼に逆らえず、雨彦もそっと眠りに落ちていった。