いつからか用務員室に足が向くようになっていた。とはいえ、日中は授業や部活があるから、顔を出すのは専ら放課後の遅い時間だ。
生徒達を送り出し、事務仕事を終わらせてから帰り支度をして用務員室に向かう。
用務員室のドアを開ける際にドキドキした気分には今でも慣れることができない。ノックをして返事を待ってからノブを回すこの瞬間に、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感じを覚える。まるで悪いことをしているみたいだと思う。
「あいよ」
「お疲れ様です」
声をかけて中に入る。部屋の中にはいつもと同じ光景があった。机に向かって座っている京極の姿が見える。彼は振り向いて渚を見るなり目を細めた。
「…今日も来たのか」
「はい。来ちゃいました」
へらりと笑ってみせると、京極は苦笑しながら立ち上がる。
「飲むだろ?」
そう言って手に持ったマグカップはすっかり渚専用になっているソレだった。
「お願いします」
渚の答えを聞くが早いか、京極は慣れた手付きで2つのマグカップにコーヒーを注ぐ。
「ほらよ。熱いから気を付けな」
「ありがとうございます」
定位置となった場所に腰掛け、マグカップを受け取る。嗅ぎ慣れたコーヒーの香りに落ち着いた心地になって、渚はほうと息を吐いた。
京極はコーヒーを啜ると机に向き直した。机に向かっているのは珍しいなと思うが、何か仕事が残っているのだろう。忙しいからと追い出されないことがありがたかった。
しばらくの間、壁にかけられた時計の音だけが規則正しく時を刻む。静寂を破るように、不意に京極の声が響いた。
「あんた、好きな奴はいないのか」
心臓が大きく跳ねる。
一瞬だけ呼吸の仕方を忘れてしまった気がして、慌てて大きく吸い込んだ空気と共に吐き出された言葉もまた大きかった。
「えっ!?…な、なんですか急に!」
「いいから答えなって」
動揺する渚を見て、京極は人の悪い笑みを浮かべてクツクツと笑う。
「失恋したのを知ってて聞くかな…」
「それを引き摺ってるように見えないから聞いたんだけどねえ」
「えっ」
思わず顔を上げて京極を見つめるが、彼はいつもと同じ人を食ったような笑顔を浮かべている。
京極には、もう彼女を引き摺っていないように見えるのだろうか。渚の背を冷たいものが走る。
失恋した同士の傷の慰め合いなのだという理由をつけて用務員室に訪れていたのに、もうそれが出来なくなってしまうのかと思うと足元が崩れてしまうような気持ちになった。
「…好きになる資格なんて、ないんです」
ぽつりと呟く。
渚が用務員室に来るようになったのは、渚の失恋を偶然京極が知り、慰めてくれたからだ。京極もまた失恋をしたのだと、コーヒーを差し出しながら教えてくれた。そして、職員室でひとりぼんやりしているくらいなら用務員室にコーヒーでも飲みに来れば良いと言ってくれたのだ。
その言葉に甘えて用務員室に通う内に、すっかりこの場所が——京極と過ごす時間が好きになってしまっていた。
自分が好きになってしまったせいで、また大切に思っていたものを手放すことになるのかと、暗い影が心に落ちる。
一言呟いて俯き黙り込んでしまった渚をじっと見つめていた京極は、「ふうん」と一言漏らすと再び口を開いた。
「まあ、そういうことにしておいてやるけどよ」
含みのある言い方に不安が掻き立てられる。恐る恐る見上げると、ニヤリとした笑みを返された。
「俺に好きなヤツが出来た、って言ったらどうする?」
心臓が止まるかと思った。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
これは罰だ。
これはきっと、失恋を言い訳にずるずると京極の優しさに甘えていた卑怯な自分への罰なのだ、と渚は思った。だから、こんなにも胸が痛いのだろう。
「……そ、う、なんですね……」
やっと絞り出した声は、震えていなかっただろうか。
「ああ」
「おめでとう、ございます」
なんとかそれだけ言うことができた。今自分はきちんと笑えているだろうか。
「それで?」
「え?」
「相手を知りたくねえか?」
相手。京極が新たに好きになった相手。
聞きたくない。そんなことを聞いてしまえば立ち直れないかもしれない。けれど、聞かなければきっともっと苦しい。
「……知りたい、です」
「そうかい」
答えた瞬間、頭上から声が降ってきた。今までに聞いたことのない、低く甘い響きを含んだ声だった。
渚は顔を上げることができなかった。怖くて、顔を上げられない。
「じゃあ、教えてやろうか」
耳元で囁くように告げられた言葉にびくりとする。
「あんたのことだよ」
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、見慣れた用務員室で、見たこともない表情で笑う男がいた。