一日早いけど、という前置きと共に母と妹から手渡されたのはチョコレートだった。礼を言いながら青いラッピングがされたそれを受け取って、明日がバレンタインデー当日だということに思い至る。
プレゼントされたそれを自室に置いて家を出る。明日は朝から夜まで仕事が入っていると予定を知らせてあったので、気を使って今日渡してくれたのだろう。
それにしても、と事務所に向かいながらクリスは思う。バレンタイン絡みの仕事が多い為にそういう時期なのだというのは分かっていた筈だが、当日が明日に迫っていることなどすっかり頭から抜け落ちていた。ライブやラジオの出演などは当日に行うが、CMやテレビ番組、雑誌の撮影などは下手をすると数か月前に行うので、仕方がないといえばそうなのだが。
バレンタインはユニットでの仕事もあるが、個別の仕事も多い。クリスも想楽もそれぞれで忙しく仕事をしていたし、雨彦は事務所で毎年恒例になっているバレンタインライブに出演する予定になっていた。
(……当日に会うのは、きっと難しいでしょうね)
とはいえ、渡す為のチョコを用意していた訳でもない。何せ今朝家族に渡されるまで当日が明日であることを忘れていたくらいだ。だが、どういう訳かバレンタイン当日に雨彦に会えないことが残念でならない。
「おはようございます」
挨拶をしながら事務所に入ると、そこには予想していなかった先客がいた。
「おはようさん」
応接用のソファに座っている雨彦がひらりと手を振って応えてくれる。まだ誰も来ていないと思っていただけに少し驚きながらも、クリスは彼の向かい側に腰かけた。
「とうとう明日がバレンタインライブですね。応援しています」
「ああ、期待に応えられるよう努力するさ」
そう言ってひどく柔らかく笑う雨彦の顔を見て、クリスは自分の鼓動が大きく跳ねたのを感じた。この感情が何なのか分からない程、子供ではない。けれども、どうしていいのか分からなくて困惑してしまう。
そんなクリスの様子に気付いた様子もなく、雨彦が言葉を続ける。
「――ところで古論、明日の夜は空いてるかい?」
「明日、ですか?」
思わぬ提案に驚きを隠せないままクリスは聞き返す。
「明日は夜まで仕事がありまして…。その後であれば空いていますが、雨彦はライブがあるのでは?」
「都内の会場だしな。ライブ後とはいえお前さんと会うくらいなんでもないさ」
仕事の後に雨彦と会うことが出来るというだけで、こんなにも嬉しい気持ちになるなんて思わなかった。しかも雨彦の方からの提案なのだ。クリスは自分が浮足立った気持ちになっていることを自覚する。
それでも、だからこそ躊躇ってしまう。もし自分の好意を知ってしまえば彼はどう思うだろうか? 嫌われることだけは絶対に嫌だと思うのに、もしも彼に拒まれてしまったらと考えるだけでも怖くて堪らない。それなのに、彼ともっと一緒に居たいと思ってしまう。矛盾した心を持て余しながら、クリスは慎重に言葉を紡ぐ。
「……ありがとうございます。ですが……」
「ん?」
言い淀むクリスの言葉を促すように、雨彦が首を傾げる。その表情はいつも通りの穏やかなものだ。そこに嫌悪の色は見えないことに安堵しながらも、クリスは続けるべき言葉を探す。
「いえ、ただお誘い頂けたことが嬉しかったものですから。私も是非貴方と一緒に過ごしたいです」
だから気にしないで下さいと言い添えると、雨彦がふっと笑って立ち上がる。
「そいつは良かった。じゃあまた明日な」
ひらり、と手を振りながら事務所を出ていく彼の背中を見送って、クリスは大きく息をつく。
普通に会話を終えられたことにほっとする反面、明日の夜のことを思うと緊張でどうにかなりそうだ。けれども、少しでも長く彼と同じ時間を過ごせることは純粋に喜ばしいとも感じている。
「……これは重症かもしれませんね」
クリスの声に応える者はおらず、苦笑交じりの声は廊下の向こうへと消えていった。