お花見

「少し散歩をして帰りませんか?」
 そう古論に誘われたのは都内のスタジオでの撮影を終え、帰宅しようとしていた時だった。
「散歩って…今からかい? もうじき夜になるが」
「駅まで少し遠回りをする程度ですよ。勿論、雨彦の都合が良ければ、ですが」
 プロデューサーは別件の打ち合わせがあると言ってテレビ局に向かった後であり、北村は今日は珍しく兄が定時で帰って来るのだと言って足早にスタジオを出ていた。口にするのは厳しい言葉が多いが、なんだかんだで兄のことが好きらしい北村の様子を雨彦も古論も微笑ましく思いながら見送ったのはつい先程のことだ。
 スタジオのスタッフを除けば古論と二人きりなのだと意識したところで、そういえば以前もこんなことがあったなと思い出す。
 あの時は確か、まだお互いにぎこちなく距離感を測りかねていた頃だ。海へ行かないかという誘いだったこともあり、その時は都合が悪いのだと存在しない予定を作り出して断ったのだったか。
「勿論、都合が悪いのでしたら断って頂いて構わないのですが…」
 それ以降も古論は度々雨彦や北村に誘いをかけて来た。誘いに乗ることもあるが、断ることも少なくないというのに懲りずに声をかけ続けて来る古論は随分と根気のある人間だと思う。
 そんな古論に段々と絆されて来ている自覚があった。何より、自分が誘いを受けた時に見せる嬉しそうな顔を見ると無碍には出来なくなってしまうのだ。
「いや、特に予定も無いしな。付き合うぜ」
「本当ですか! では、早速行きましょう!」
 自分の返事を聞くなり満面の笑みを浮かべた古論を見て苦笑いしながらスタジオの扉を開ける。古論の反応にではなく、それを好ましいものだと感じている自分への苦笑だった。
 春とはいえ、まだ肌寒い日が続いている。雨彦としては暑いよりよっぽど過ごしやすいが、それでも上着を着てきた方が良かったかもしれないと思うくらいには気温が低い。
 だが、隣にいる古論はその寒さなど気にしていない様子で楽しげにしている。その笑顔を見るだけで寒空の下を歩くことも悪くないと思えてしまうのだから、自分も大概単純だと思いながらも歩調を合わせて歩き出した。
 古論は駅へと向かうのとは逆の方向に進む道へと入って行く。駅からはそれなりに離れているこの辺りに一体何があるのかと思っているうちに辿り着いた場所を見て、雨彦は成る程と思った。
「なかなか見事なもんじゃないか」
 小さな児童公園に植えられたソメイヨシノの木は満開を迎えており、薄紅色の花びらが風に舞う様はとても綺麗な光景だった。
「よくこんな場所を知っていたな」
「この近くを通った際に偶然この木を見つけたのです」
 その時はまだ花が咲いている時期ではなかったのですが、と古論は言葉を続ける。
「その時に、以前雨彦と想楽が桜の話をしていた事を思い出しまして。きっと貴方達と一緒に見る桜は美しいのだろうと思ったのです」
 貴方と一緒に見ることが出来て良かった、と微笑む古論の顔があまりにも綺麗で。雨彦は一瞬呼吸を忘れてしまったかのように息を止めてしまい、その後ゆっくりと吐き出した。
「……そりゃあ、光栄だな」
 こんなにも真っ直ぐで、眩しくて、愛しいものを雨彦は他に知らない。
「俺も、お前さんと見れて良かったよ」
 胸中を隠すようにいつものような笑みを浮かべると、古論は酷く嬉しそうな笑顔を見せる。
 来年もこの男と同じ景色を見たいなと、咲き誇る桜を眺める美しい姿を目に焼き付けるようにしながら思った。