あの日も6月に入ったばかりにも関わらず夏のようにとても暑い日でした。
修学旅行先でのことです。少人数で行動班を組み、その班の単位で好きなところに行きなさいと設けられた自由行動の時間。私はふと目に入った川を眺めている内に班の方々とはぐれてしまったのです。
陽は傾き始めており、宿に集合するようにと定められた時刻も迫っていました。今のように各々携帯端末を持っている訳でもないので連絡を入れることも出来ません。
とりあえず大通りに出れば歩いた記憶のある場所に出られるかも知れない。その思いで私は歩みを進めました。
夕刻だからでしょうか、それとも入る道を間違えてしまったのか、はぐれる前までは賑やかとは言えないまでも人通りがあったというのに、私以外周囲には誰も見当たらなくなっていました。
土地勘のない場所で夕暮れ時に独り歩いていることにとても心細くなり思わず足を止めると、そこから明るく賑やかな音が聞こえる通りへ続く道が伸びていることに気付きました。
あそこへ行けばみんながいるに違いない。何故だかそう確信した私は、そちらの道へ足を踏み出そうとしました。
すると後ろから誰かが私の腕を掴んできたのです。
驚いて振り向くと、そこにはお面を付けた人が立っていました。お面といっても夜店で売っているようなものではなく、もっとしっかりとした塗り物で作ってあるような物です。
そのお面は顔全体を覆うのではなく鼻筋から上だけを覆うもので、狐を模してあるように見えました。
「お前さん、そっちは”違う路(みち)”だ。それ以上進むと戻れなくなる」
声や体格などからすると、お面を付けているのは私と同じくらいの年齢の青年のようでした。身長は当時の私よりも少し低いくらい…想楽と同じくらいだったと思います。
彼はそう言うと、私の手を引き歩き出しました。賑やかな音が聞こえる方へ続く道とは違う方向です。
「あの、」
「あっちに行ってもお前さんが探してる場所には辿り着けないと思うぜ」
私は、彼の「大人しく付いて来れば正しい道にまで送り届けてやる」という彼の言葉を信じることにしました。少々強引ではありましたが、私の腕を掴む手もその声音も、私のことを気遣ってくれているような気がしたのです。
「お前さん修学旅行生か?」
訪ねるというよりは確認するように彼は口にしました。修学旅行生が多い土地柄ということもあるのでしょうが、彼は私が着ていた地元の学校のものではない制服を見てそう判断したのでしょう。
「はい。途中で皆さんとはぐれてしまって…。貴方は?」
「俺はこの近くに住んでる者さ。——たまたま、あの道に入り込んだお前さんが目に付いてね」
あの道はあまり人が立ち入らない場所だとのことで、放っておいたら私が帰れなくなると思い正しい道へ案内する為に来てくださったのだそうです。
「さあ、ここを曲がれば正しい道だ。…二度とこんな所に来ることもないだろうが、もう迷わないように気をつけな」
そう言って彼は曲がり角で足を止めました。正しい道——旅行者である私にも分かる道ということでしょう——の近くだというには少し静かすぎる気もしましたが、夜に向かう時間であることを考えると然程不自然には思いませんでした。
「あの、よろしければお名前を——」
「悪いな、名前を教えるのは無しだ。お前さんも言わなくて良い。なに、困ってる奴を助けるのは当たり前のことだしな。気にしないで良い」
口早にそう言って、彼は笑います。
「それに縁があればまた会うこともあるかも知れない」
「そうだと良いのですが…」
彼はそう言いますが、狐のお面を付けた彼しか知らない私は、彼にまた出会ったとしても彼だと判断出来る自信はありませんでした。今なぜ彼がお面を付けているのかは分かりませんが、次会う時にも彼がお面を付けていることは無いでしょう。
「ほら、早く行きな。また迷子になっちまう」
そう言うと彼は私の肩を押しました。突然のことに私は少しよろめいてしまい、転ばないように体制を整えて顔を上げると、見覚えのある道に立っていました。
交通量があり、人通りのある道です。先程まで車の通る音も人の話す声も聞こえなかったというのに、今はしっかりとそれらの音は私の耳に入って来ました。
驚いて彼がいた筈の場所を見ると、もう彼はそこには居ませんでした。それどころか、私の出て来た筈の道らしき物も見当たりません。
一体どういうことなのだろうと混乱していると、後ろから声をかけられます。声の主は同じ行動班に割り振られた方々でした。早く宿に戻ろう、という言葉からすると、どうやら彼等は私がはぐれたことに気付いていないようでした。
確かに私はしばらく迷っていたはずなのに、一体どういうことなのだろう。疑問に思いましたが、答えは分かりませんでした。白昼夢を見ていたのかとも思いましたが、彼に掴まれていた感覚がまだ腕に残っていたので、確かに現実なのだと思います。
もしかしたら、狐につままれたというのはああいうことをいうのかも知れませんね。ですが彼が狐だったとしても、悪戯で私を連れ回したのでは無いのだと思います。
そう確信出来るほどに私の腕を掴んだ彼の手と言葉は優しかったのです。何より困っていた私を助けてくれたのは間違い無いのですから。出来ることならもう一度お会いして、きちんとお礼を言いたいと、ずっと思っているのです。
彼は、そんなこともう覚えていないかも知れませんが。