貴方に指輪を

 古論クリスという人間に惹かれていると認識したのは何時のことだっただろうか。
 はっきりとそう認識をしたのは自分がアイドルという仕事を共にする仲間達を手放し難く思っていると気付いて以降だが、よくよく考えてみれば、それより前から惹かれていたのかも知れない。

 その指輪を見かけたのは偶然だった。露天商が並べている商品の中で、クジラの意匠が彫られた指輪が目に入ったのだ。注視している訳でもないのに海のものが目に飛び込んで来るようになったのは明確にクリスの影響だろうと思う。
「いらっしゃい。お兄さん、この指輪が気になるかい?」
「……ああ」
 露天商は人の良さそうな中年の男性だった。人好きのする笑みを浮かべ、雨彦に話しかけてくる。紛い物ではなくきちんとした銀細工なのだと彼は語った。
 構わないから手に取って見てくれ、と促されるがままにその指輪を手に取る。クジラの意匠が細かく彫られており、波模様を思わせる彫りが施されているそれは素人目にも良質な品だと分かる。
「生憎と一点ものでサイズはそれしかないんだけど大丈夫そうかな?」
「ああ、丁度良い」
 重量感のあるそれを雨彦は右手で弄びながら指を通す。以前シルバーアクセサリーの仕事をした際に、雨彦とクリスで指のサイズはそう変わらなかった記憶がある。雨彦で大丈夫ならクリスでも大丈夫な筈だ。
 コレを見たらクリスはきっと喜ぶだろう。そう思った次の瞬間には雨彦は代金を払っていた。つい海のポストカードを買うのと同じ感覚で買ってしまったが、流石に指輪はどうなのか、と露天商が釣りを用意する間に冷静になった頭で思う。
 露天商は雨彦がプレゼント用に指輪を買ったなどとは露程も思っていないらしく、釣り銭の後に小さい紙袋に指輪を包んで雨彦に渡す。
 冷静に考えれば、恋人でもない相手に指輪を貰うなんて重いのではないか。とはいえ買ってしまったものは仕方がないし、雨彦が持っていても箪笥の肥やしになるだけだ。幸い銀細工なので、お守りだと言い張ればクリスであれば恐らく納得してくれるだろう。事実銀は魔除けになるのだから。
 想楽辺りであれば流石に苦しい言い訳だと見抜くだろうが、他に人がいない時に渡せば問題はない。
 そう自分の中で結論付けて、小さな紙袋をツナギのポケットに忍ばせた。

***

 クリスに指輪を渡す機会は思っていたよりも早く訪れた。
 3人揃ってのボイスレッスンを終えて、この後に講義があるからと想楽が一足早くレッスン室から出て行く。残ったのは雨彦とクリスの二人だけ。順番待ちをしている次の利用者も居らず、雨彦とクリス以外は誰もいない。都合が良かった。
 今思い出したように装いながら、小さな紙袋をクリスに差し出せば、クリスは小首を傾げながらもそれを受け取ってくれた。
「お守りみたいなもんだ。お前さんが好きそうだなと思ってね」
 クリスは指輪を紙袋から取り出し、その精緻な細工にほう、と感嘆の声を漏らした。
「ザトウクジラですね! 躍動感のある素晴らしい意匠です」
 クリスの指がクジラの意匠が彫られた指輪をそっと撫でるのを雨彦は黙って見つめる。
 考えてみれば、アイドルいう職業柄仕事中は指輪など付けていられないし、何より隙あらば海に潜っている古論に銀の指輪などという物は向いていないだろう。
 本当に勢いで買ってしまって何も考えていなかったなと今更ながら雨彦は思う。衝動買いなど自分と無縁だと思っていたのだが、どうもクリスが喜びそうだと思うとブレーキが効かないらしいと内心で苦笑する。あまり度を超えてしまうとクリスも困るだろうから、以後は気をつけなければいけない。
「素晴らしい指輪ですが、こんな素敵な物を頂いてしまって良いのでしょうか…?」
「ああ。お前さんが不要だってなら別だが、貰ってやってくれると嬉しいね」
 戸惑いを見せていたクリスだが、雨彦の言葉を聞いて一旦目を伏せた後、雨彦を見つめて花が綻ぶように笑ってみせた。
「ありがとうございます…! 大切にしますね!」
 どの指に嵌めるのかを考えたようで、一瞬だけ指先で彷徨った後にするりとクリスの指を通った指輪は、雨彦の思ったようにクリスの指にも丁度良いサイズに見える。
「喜んで貰えて嬉しいよ」
 クリスの“右手の薬指”で煌めく指輪を見て、左手の薬指にそれをさせる権利が自分に無いことにほんの少しだけ哀しさが過ったことは秘めたまま、雨彦も笑顔を返した。

***

 クリスに指輪を受け取って貰えたことで目的は達されたので、雨彦はそれ以来指輪のことは記憶の彼方に追いやっていた。厳密に言えば、指輪以上は不味いだろうとあれ以後線引きをしていたので忘れていた訳ではないのだが、意図して考えないようにしていた。元々アクセサリー類を付ける習慣のないクリスがあれ以来指輪を身に付けている様子がないのは当然なのだから。
 そうも言っていられなくなったのは、クイズ番組の収録がきっかけだった。
 3人1組のグループ4つによる対決で回答数を競うポピュラーなクイズ番組だった。その回はオンエアが6月ということで、ジューンブライド絡みの問題が多く出題されたのだが、その中のひとつに「結婚指輪は必ず左手にするものであるか否か」という問題があったのだ。
 早押し問題ではない為、出場全グループに回答権のある問題だった。
「二択だから分からなくても正解率は50%だけど、勝つ為には確実に取りたいよねー。2人は分かる?」
「生憎と詳しくないな」
「クリスさんはー?」
「……知っています」
 ならばクリスに任せようという流れになったのだが、雨彦にはクリスが浮かない顔をしているように見えて気になった。
 シンキングタイムが終わり、答えが発表される。答えは否でクリスの解答は正解だった。
「ドイツやスペインなどでは結婚指輪は右手の薬指にするんだそうです」
 補足の説明を聞いて思わず雨彦がクリスの方を見ると視線がかち合う。するとクリスはどこか悲しそうに笑って目を伏せた。
「古論さんはスペインと日本のハーフだそうですが知ってたんですか?」
「…はい、母も右手にしているので」
 すぐに飛んで来たMCの質問に答えるクリスを見ながら雨彦は指輪を渡した日のことを思い出していた。

 番組収録後、クリスから離れたところで想楽に声をかけられる。
「クリスさんと何かあったの?」
 例の問題以降も変わらず解答を続けそれなりの成績で番組を終えたのだが、流石に想楽は異変を感じたらしい。
「まあ…、あったと言えばあった…な」
「何でも良いけど、さっさと仲直りしてよねー」
 深くは聞かないであげるから、と言いながら想楽は雨彦から離れ帰り支度を始める。時折り鋭くこちらに切り込んで来ようともするが、基本は深入りせずにいてくれる想楽のことを、クリスとは違う意味で好ましいと雨彦は思う。雨彦自身まだ整理が付いていないことでもあり、今回は特に想楽の気遣いがありがたかった。
 じゃあ僕はこれで、と退出する想楽を見送ってクリスの方へ身体を向ける。
「この後、話は出来るかい?」
「…はい」
 どこか諦めたような顔で頷くクリスを見て、そんな顔をさせたい訳ではないのだけどな、と雨彦は目を伏せた。

***

 あのまま楽屋で話をしても良かったのだが、収録が終わった以上あまり長居は出来ないのでとりあえず2人は個室制の居酒屋に入る。
 了承を得てから適当に注文をし、品が揃ったことを確認したところで、道中口を殆ど開かなかったクリスが言葉を発した。
「すみませんでした」
「それ、は」
 一体何に対しての謝罪なのか雨彦には読み切れない。いや、想像出来るものはあるが、それはあまりにも雨彦にとって都合が良いもので、飲み込みきれないという方が正しかった。
「貴方のことが好き、なのです」
 好きだと言う割にその表情は辛そうで、ハナから雨彦に受け入れて貰えるなどと考えていないのであろうことが伺えた。
「指輪を頂けたことが嬉しくて、つい、もしこれが愛の誓いとして渡されるものであったらどんなに良いだろうかと、思ってしまったのです」
 日本では婚約指輪や結婚指輪を嵌めるのは左手の薬指というのが一般的だ。だからきっと雨彦には分からないだろうと、そう思ったのだろう。事実、今日そんな問題を出されるまで雨彦は右手の薬指に嵌める習慣のある国があるだなんて知らなかった。
「受け入れて欲しい、とは、言いません。ですが、どうか、あの日のことは忘れて欲しいのです。指輪を返して欲しいと仰るなら、お返しします。だから、どうか、」
 指輪を嵌める際僅かに躊躇ったように見えたのは、嵌める指に迷ったからではなく、このまま薬指にして良いものかと迷ったからなのだろうか。結局他の指ではなく薬指にすることになったのはサイズのこともあるだろうが、右手なら雨彦に気付かれまいと思ったからなのは確実だ。
 秘めたままにしておくつもりであった、到底受け入れて貰えると思っていない恋心を、事故のような形であるとはいえ無理矢理に暴かれてしまった悲しみと苦しさは相当のものだろう。
 いつだって真っ直ぐに見つめてくるクリスの瞳が、今は苦しそうに歪んで雨彦を見つめている。
 ああ、そんな顔をさせたい訳ではなかった。いつも笑っていて欲しい。朗らかに楽しそうに、時に困らせてしまうことも多々あれど、それでも幸せでいて欲しい。
 雨彦はクリスの笑顔が何よりも好きだった。
「忘れるなんて出来ない」
 指輪も返さなくて良い、と口にすると、拒否されたと思ったらしいクリスが堪えるように俯いた。
「そう、ですよね。すみません、都合の良いことを…」
「違う」
 自分と同じ気持ちを雨彦が持っているとは全く思っていないらしいクリスの言葉を、出来るだけ優しく聞こえるように意識しながら雨彦は遮る。
「俺もお前さんのことが好ましく思ってる。お前さんが俺と同じように感じていてくれて、嬉しかったんだ」
 雨彦の言葉を聞いて顔を上げたクリスの瞳が揺れている。
「指輪を贈った時、お前さんの左手の薬指にそれを嵌められたら良いのにと思った。お守りだって言って渡してる上、好きだと告げてもいないのに」
 だから同じなのだ、と口にした。クリスは信じられない、という顔をして雨彦を見つめている。
「お前さんが俺と同じ意味で俺を好いてくれていて嬉しいよ」
「雨彦……」
 殊更に優しく雨彦はクリスに笑いかけ、そっとその右手を掬い上げた。
「なあ、もう一度贈らせてくれないか」
「え?」
「今度はお守りだなんて誤魔化さず、きちんと意味を込めて、揃いの物を」
 右手の薬指に口付ける。その意味をクリスが分からない筈はない。
「……っ、はい……!」
 蕩けるように笑うクリスを見て、雨彦は人知れず思う。
 この笑顔が何よりも愛おしくて、守りたいとずっと思っていた。そしてきっとそれはこれからも変わらないのだろうと、そう思った。